蔵の歴史
”ふじの井”の由来
 新潟と村上を結ぶ国道113号線のほぼ中程に、日本海の怒涛と果てしなし砂丘、美しい赤松林に囲まれた景勝の地【藤塚浜】にふじの井酒造があります。
 昔から新潟−村上間の海岸地帯には、良い水が出ないとされていましたが、藤塚浜にだけは古くから伝わる神秘の井戸がありました。汲めども尽きせぬこの井戸水は、近郷近在から舟水や飲料水を求める人々の貴重な潤いの地であったといい、人呼んで“不二の井戸”と称しました。この井戸水で酒を醸すと醗酵旺盛にしてうまい酒ができることから、銘酒“ふじの井”が誕生しました。
 地下20メートルの原水は朝日・飯豊連峰の伏流水といわれ、100年もの歳月をかけてたどり着くといいます。口に含むとわずかに甘味を感じ、酒造りが難しいとされる軟水系ですが不思議と醗酵が旺盛で、辛口、まろやかな酒に仕上がります。
飯豊連峰
飯豊連峰
ふじの井酒造の創業
 
ふじの井酒造
ふじの井酒造
 明治19年(1886)9月、藤塚浜で大火があり全村500余世帯の集落は一夜にしてそのほとんどを焼失しました。その大火の跡に只一つ、現在一号蔵とよばれている蔵だけが焼残り、村人を驚かせたといいます。初代政太郎は火から酒蔵を守るために酒蔵の扉を閉め、扉の隙間に味噌を塗り込みこの蔵を守り通しました。今でもこの酒蔵の天井板に生々しく当時の猛火を想わせる焦跡が刻み込まれています。紫雲寺潟の干拓が功を奏し、村松浜に代官所ができ、北前船が繁く寄港する様になって藤塚浜も次第に発展した矢先の大火災で、村人達の大半が当時「鰊景気」に湧く北海道:小樽近くの高島海岸に移住して行きました。平成の今も、北海道の高島町と藤塚浜の盆踊りが同じであることから当時が偲ばれます。
 徳川末期頃、仲間三人衆:桶屋と船主と地主が酒造りを始めたともいいます。大火から酒蔵を守った政太郎が一人残り、この酒蔵を継承再建したことからこれを記念して、大火に遭った酒蔵を一号蔵と命名し創業を明治19年9月としました。
紫雲寺潟の干拓と落堀川
 270余年前、縦4km、横8km、深さ4mの大きな紫雲寺潟があり、大雨のたび毎に大水害をおこし人々を困らせていました。新発田藩では度々、潟の水を海へ流し落とす大工事を起こしましたが、度重なる失敗で断念しました。享保13年(徳川吉宗の時代)信濃国の米子村より竹前兄弟が幕府の許可を得て自費で紫雲寺潟の干拓を始め、苦難の末に享保20年、紫雲寺潟の水を藤塚浜海岸に切り流すことに成功しました。これが今の落堀川です。
落堀川と酒蔵の再開
 紫雲寺潟干拓によって1600町歩余の美田と、数多くの村が生まれました。特に落堀川上流の金塚新田に大粒の米が育つ事に目をつけた政太郎は、川上に水車精米小屋を造り、そこで精米した白米を川舟で運び酒造りを再開しました。下り舟なので運送費が安くつき、その分を更に精米に力を入れて、うまい酒を造ったので商売は再び繁盛して現在の基盤が出来上がりました。
一号蔵と家付き酵母
 焼け残った一号蔵は手斧造りのしっかりとした土蔵造りで、徳川末期の建築だろうといわれています。火災にも強いが新潟地震にも強さを発揮。びくともしませんでした。
 又、厚さ50センチの土壁は朝夕入る山風と海風の冷気を調湿し、酒造蔵としては最高の蔵です。今では蔵が手狭な為、そのほとんどは昭和蔵と呼ばれる三号蔵で行われていますが、一号蔵では先人を偲び、今でも毎冬旧来の手造りで大吟醸を仕込んでいます。
 平成8年、第63回関東信越国税局酒類鑑評会で首席第一位の誉に輝いた酒は奇しくもこの蔵で仕込んだ大吟醸でした。昔から蔵には代々家付酵母が住んでいるといわれますが本当かもしれません。
一号蔵
一号蔵
 急速に進歩してきた現代の大仕込酒蔵では、自然の風を入れ、土壁で調湿をする様な酒蔵は時代遅れかもしれません。でも私たちはこの蔵で酒を造るのが一番好きです。
雪の降り積もる真夜中に蔵廻りをし、そっとタンクに耳を傾けると酵母が歌をうたっている様に聞こえます。それはまさに神秘的であり、ひとつの生命が生まれる躍動が静かに私の心を和ませてくれます。
 先人の血と汗、そして知恵で造り上げた酒蔵で、豊かな蒲原米を研き凄烈な地下水を汲み上げ、美味い酒造りを天与の業として、大勢の方々に喜ばれることが私たちの願いです。
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